教師という仕事は、優れて臨床的な職業と言えますね。
昨今の教育論のひとつの問題点は、この「臨床」という視点が抜け落ちて、制度論に話が終始してしまっていることかも知れません。
確かに、臨床論は定型化・一般化できないので、議論の俎上に乗せにくいのが実情でしょう。
制度は誰の目にも見えますから、議論しやすいと言えます。しかしその実、制度の全体像を見通している人はそういませんから、歪んだ議論が横行しやすいということかも知れません。
教師が尊敬され、全幅の信頼を寄せられていた時代には、教師は臨床の知を存分に発揮できたことと思います。
それが消えつつある現在、「教える」ということ自体が不可能になりつつあるのかも知れません。
医者が信頼されなくなれば、恐らくまともな治療は不可能になるであろうことと、それはパラレルな状況であるような気がします。
臨床の知を守り育てるためには、どうしたらいいのか?
それは現在の世間の流れとは逆で、教師の裁量の幅を広げる方向しかないのではないでしょうか。
企業が顧客満足度を上げようと思ったら、現場の裁量の幅を広げることだだと言われています。現場を信じ、現場に任せるということですね。そこから「真実の瞬間」が生まれるのだと言われています。
教育の現場においても、同じことが言えるのではないでしょうか。
しかしそのためには、問題ある教師をどのようにして排除するかという方法論も、同時に求められてくるでしょう。
企業においてならば、顧客満足を維持するための方法論として、顧客へのアンケートという手法があり得ます。しかし、教育は(少なくとも義務教育は)市場におけるいわゆるサービスとイコールではありません。子どもは成熟した消費者とは言えず、親はサービスの提供の場に立ち会っていません。
単純に市場の方法論を援用することには問題があります。
恐らくこれら二つはセットでしょう。
前者(現場の裁量拡大)が欠ければ教育は恐らく成立しませんが、後者(質の維持)が欠ければ現在の世論はたぶん納得しないだろうからです。
逆説的ですが、後者のための方法論を見つけることこそが、教育現場に臨床の知を実らせるために必要ことなのかも知れません。
その方法論は、完璧主義であってはならないと思います。究極を目指す方法論は、現場を痩せさせるでしょう。窮屈な状況では、臨床の知は十分に機能しないでしょう。
たとえば全体の8割がうまくいっていればいい、何かそういう思想と方法論こそが求められているのではないかと思います。