2005年12月21日水曜日

進歩主義と決定論

人間はどこまでも快適性を追求せずにいられないところがありますから、どんどんエスカレートしていけば、完璧を求めるようになります。

それもまた人間性のうちと言ってしまえばそれまでなのですが、これが進歩主義と結びついて正当化されてしまうと、弊害の方が目立ってくるような気がします。


進歩主義というのは、決定論と結びついています。

しつけがうまくいっている子は切れない。対話がうまくいっている先生の学級は崩壊しない。楽しい授業ができていれば、落ちこぼれは出ない…。


こうした考え方をする人たちは、たぶん良心的な人で、子どものことをよく考えているのだろうと思いますが、そのことがかえって子どもたちを苦しめる可能性については考えていないのではないでしょうか。


もし、授業が楽しければ落ちこぼれは出ないと言うなら、楽しい授業にも関わらずついていけず落ちこぼれてしまった子どもの逃げ場はどこにもなくなります。

不登校児による著書『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』でも、「不登校でも社会に出てうまくやっていける」と言ってしまった瞬間に、うまくやっていけなかった者はもっと苦しむことになる、その問題性が告発されています。


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この世界に決定論は存在しません。

かつてアインシュタインは、量子力学の登場を目の当たりにして「神はサイコロを振らない」と言いましたが、それが間違っていたことはその後の量子力学の成功が証明しています(量子力学の世界には確率しかありえません)。


彼らは、子どものことを考えているつもりが、たぶん気づかずにもっと過酷なことを子どもに要求しているのだと思うのです。


よく「子どもの無限の可能性を信じる」などと言いますが、進歩主義の文脈でこれが語られるとき、言っている人は子どもの無限の可能性など信じちゃいないのではないでしょうか。


何故なら、本当に子どもの無限の可能性を信じているなら、どう転んでも子どもはたくましく生きていってくれると考えるはずだからです。子どもの可能性を信じていないからこそ、こんなことをしたら子どもがダメになってしまうんじゃないかとか、こうし てやらなければまともな子どもには育たないんじゃないかと考えるのでしょう。


「無限の可能性」ということは、「想像もつかない」ということです。大人の想像の範囲内で子どもの未来をコントロールできるという発想が、子どもの可能性を尊重しているはずがないと思うのです。