2005年12月9日金曜日

「個性」尊重教育は独創性を育てるか

個性と独創性とは違いますよね。個性とは、独創性のある人もない人もいる、そういうことを指して個性と呼ぶのではないでしょうか。

独創性ある「個」人を育てようというなら、見所のありそうな奴を見つけて英才教育でもやればいい。全員のあるがままの個性を尊重したところで、独創性のある人間は増えないと思います。


しかし、実を言うと私はそういう独創性の捉え方自体が違うのではないかと考えています。


「違う」というのは言い過ぎかも知れませんね。そういう独創性もあるかも知れません。しかし、実際に企業の中で働いていて、しかも一応はクリエイティブと呼ばれる業界で仕事をしていて痛感するのは、独創性とは「個」から生まれるものではないということです。


ブレインストーミング(略してブレスト)という手法がありますね。

数人でお互いのアイデアをなるべく否定しないように、連想ゲームのように話をふくらませていくうち、思ってもいなかったようなアイデアが生み出せるという手法です。

芸術家ならいざ知らず、企業において有用なアイデアは往々にして、そういうプロセスから生まれてくるような気がします。芸術家だって、一人じゃぱっとしなくてもデュオを組んだらすごい音楽が生まれたりしますよね。近年、企業においても「コラボレーション」という考え方がもてはやされるのは、そこを見直して行こうという動きではないでしょうか。


もしかしたら、独創性こそチームワークから生まれるのかも知れませんね。

単純労働なら「個」人の集まりでも十分できますが、複雑かつ創造的な仕事になるほど、集団でどう考えるかということが重要になってくるのではないでしょうか。

何度も引き合いに出すトヨタ生産方式においても、現場の小集団から生み出されるカイゼンがその独創性を支えています。


チームワークで発想するにしても、個性のぶつかりあいが必要だという意見があるかも知れません。みんなおんなじだったら、発想も膨らまないじゃないかと。

しかし、そんな心配は無用だと私は思います。実際にブレストをやってみれば、画一的な教育を受けて育ったはずの私たちの世代でさえ、十分に個性的だからです。


経験的に言って、独創的なブレストに必要なのはことさらに強調される個性ではなく、他者と同調できるかどうかだと思います。セッションの中で同調律を作り出せるかどうか。それと、前向きに考えられることでしょうか。


そう考えてくれば、日本人もまだまだ世界で勝負できるし、独創性をとるか学力をとるかという奇妙な議論に振り回される必要もないのではないかと思います。