2005年11月27日日曜日

「教育=文化」論

社員教育の経験から

私は2、3年前に2年間ほど会社の社員教育を担当していました。

それまでの人事プロパーによるおさだまりの研修にははなはだ疑問を感じていたので、短期間に数多くの研修をこなしつつ、現場経験者ならではの問題意識から社員教育のあり方について模索しました。


そのときに感じたのは、教育とは文化そのものである、ということです。


私の会社は、広告代理店というきわめてやわらかい=ルーズな企業風土を持つ会社です。しかし親会社はメーカーなので非常に硬い風土を持っています。

近年、親会社の風土を背負った取締役が乗り込んでくるようになって、私たちの企業風土は否定されがちでした。
そりゃそうでしょうね。メーカーから見れば、こんないい加減極まりない業界があっていいのか、というのがマスコミ業界ですから。

そんな事情を背景に、来る日も来る日もさまざまな層の研修をやっていた中で、ひとつはっきり見えてきたことがありました。


自分たちでも気づいていなかったことですが、広告業界の人間は議論好きなんですね。

しかもそれを短時間にまとめあげるのがうまい。この点は外部の研修機関のトレーナーが異口同音に驚いていました。
たしかに、研修の中でグループ討議なんかをやらせると、ものすごくうるさいんです。それでいて時間になるとビジュアルな発表資料がきちっと出来ている。


ここ数年支配的になりつつあった親会社の文化の影響と、大量の中途採用のためにオリジナルな文化が曖昧化していたのですが、こうした研修の場に居合わせて、これこそが文化の共有なんだろうなと思ったのでした。


そして、何をどう教育するにせよ、連綿と息づいている文化性を無視した教育はありえないと感じたのです。むしろそここそ教育を考えるうえでのスタート点であると。

それぞれの文化

さて、日本には日本の文化があり、地域には地域の文化があります。

同様に、日本には日本の教育があり、地域には地域の教育があるのではないでしょうか。
それはそれぞれの国や地域の文化に支えられたものなのだと思います。


いろんな文化があります。

庶民的な文化、荒くれの文化、ハイソな文化、自由志向の文化。

教育熱心な文化もあれば、教育に重きを置かない文化、もっと実質的なものを重んじる文化もあるでしょう。


フィンランドの教育に学ぶのもいいでしょう。学ぶところはきっとあるでしょう。また、これまでの学校教育を否定するのもいいでしょう。

しかし、教育とは文化であり、文化を伝えていくことである、このことを忘れてはいけないと思います。


私も海外の仕事をしていたことがあるので、外国を知ることの重要性はよく知っているつもりです。しかし、外国と比較してどうする、と思うのです。


大切なのは、どんな文化を私たちは生きているのかという振り返りであり、どんな文化を受け継いでいこうとしているかについての認識の共有ではないでしょうか。

100の方法論よりも(それも必要ですが)、そういうことの認識とそれを話し合える場こそ必要であるように思います。


「教育に失敗があってはならない」という言い方があります。これに私がなじめないのは、それが完全性を志向しているからではなく、それが文化を視野に入れていないからかもしれません。

文化に「成功」も「失敗」もないように、教育は「失敗」とか「成功」というものと元々無縁なのではないかと思うのです。むしろそういうものとして教育を捉えるべきではないかということです。

文化とともに生きる

病因を追求し、取り除こうとする外科手術的なやり方がとりわけ精神医学の分野で袋小路にはいりこんでいるように、学校を問題視し、教育を変えていこうとする考え方もまた、すでに袋小路にはいりこんでいるのではないでしょうか。


とかく理想主義者は文化を軽視しがちです。

かつて共産主義国家が、計画経済を傘下の地域や国家に押し付けた結果、そこにあった地場産業を壊滅させてしまったのはいい例です。

また、先日ジェンダー主義者たちが、女性の入山を禁止している大峰山への入山を強行しましたが、あれなども文化の重さを理解していないが故の愚行でしょう。

文化は理屈でないところに息づいているものだし、人は理屈以前に文化とともに生きているのだということを彼らはまったく理解していないと思われます。


もちろん、文化には抑圧的な面があることは認識しておくべきです。

文化を守り慈しんでいくべきものと固定的に捉えてしまうと、教育は抑圧の道具と化すでしょう。文化の中には悪弊も少なからず含まれているからです。

文化は、絶えずあたらしく創られていくものでもあることを忘れてはいけませんが、少なくとも教育はいまある文化の延長線上に考えられるべきなのではないでしょうか。

文化を無視したところに教育はありえないのだと思います。


何のために勉強するのか、何のために教育はあるのか。


以前「社会に通用する、また社会にとって有用な人間を育てるため」という答えを出したことがあります。

また「子どもの可能性を発見し、育てるため」という答えを出した方もいらっしゃいました。

そのいずれも間違いではないと思いますが、「個」ではなく「人類」という種の観点からより根源的な答えを求めるなら、「教育とは文化である。文化を受け継ぐためにこそ私たちは勉強するのだ」ということではないかと思うのです。

日本人の数学嫌い

先のPISAの調査で日本の子どもの数学嫌い、数学離れが明らかになったと言われています。根拠となっている数字を以下に掲げます。


「将来就きたい仕事に役立ちそうだから、数学は頑張る価値がある」49.4%(香港74.3%、フィンランド73.0%)、

「将来の仕事の可能性を広げてくれるから、数学は学びがいがある」42.9%(フィンランド87.5%、香港82.1%)、

「自分にとって数学が重要な科目なのは、これから勉強したいことに必要だからである」41.4%(フィンランド73.9%、香港70.4%)。


数学リテラシーの分野では一位グループを堅持しているにも関わらず、日本の子どもの数学離れが進行していると言われるのは、こうしたデータが元になっています。


複眼的思考を保つために、ここはすこし斜めから見てみましょう。私はむしろフィンランドや香港の数字の高さの方に違和感を感じるのです。

ここはよく考えてみたいところですが、日本人の私たち自身は数学がこれほど子どもの将来に役立つとほんとうに考えているでしょうか。


数学というのは、あらゆる学問の中でもっとも抽象性の高い学問です。もっとも科学的な学問だと言ってもいいでしょう。

そういう学問に対して、私たちの文化はいまひとつ重要性を見いだしていないように感じます(ぴんと来ていないといった方が近いでしょうか)。それどころか、私たちの社会は「学問」だとか「科学」というもの自体にどこか疑念をもっているような気さえします。

「学問」など道楽者のやること、と思われていたのはそう遠い昔のことではありませんね。


今でも、一流大学を出た若者が「頭ばっかりよくたってねえ」と言われるのを聞きます。「学校で学んだことなんて実社会じゃ役にたたねえんだよ」と罵倒される場面に出会うこともあります。

「いやそんなことないでしょ」と横から反論する私自身が、別の場所で同じようなことを言っているような気もします。


それはやっかみ半分かもしれませんが、高度な勉強をしたことと現場で使えることとはまったく別物だという、いくばくかの「知恵」もそこには含まれているのではないでしょうか。

大学でMBAを取得したての若者がいきなり高給を手にする社会と、熟練性(=どれだけこなれているか)を重視する私たちの社会との、根本的な文化の違いがそこにあるような気がします。

文化が違えば「知」のかたちも違う

さて、そうした現実に出会うたび、「それがこの国のレベルだよ」と、自分の国を二等国扱いしてきた歴史がありました。


しかし文化が違えば「知」のかたちも違うのが当然です。

もとより私たちが向かい合っているのは、西欧起源の、しかも近代に端を発するかなり限定された知の体系なのです。それを絶対視することもないはずです。


もちろん、明治以来その西欧近代の力によって日本がここまで来たのは事実だし、その間に西欧近代が私たちの文化のかけがえのない一部になったことも確かです。右翼や左翼が企図するようにそれを「リセット」することはできないし、その必要もないと思います。


それでは私たちがとるべき道はどこにあるのでしょうか。

さいわい、参照すべきヒントはいくつもあります。

考えるトヨタの現場考えるトヨタの現場
田中 正知

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最近「考えるトヨタの現場」(田中正知著、 ビジネス社)という本を読みました。


近年産業界でひっぱりだこのトヨタ生産方式について語った本です(もし、トヨタ生産方式を単なる効率化の手段だとか工場の中の話だとか思っている方がいらっしゃったら、だまされたと思って一度お読みになることをおすすめします。教育論にも関わってくるとても刺激的な本です)。


この本を読んで感じるのは、日本人特有の思考がいかに普遍的なものとなり得るか、それがいかに世界を驚嘆させ得るか、といことです。

と同時に、それが文化性に基づくがゆえに、いかに普及しにくいものであるか、ということにも驚かされます。トヨタ生産方式ほど今もてはやされる思想はなく、それでいてトヨタ生産方式ほど真の意味での普及が進まない想もありません。だからこそ競争力が保たれているのだともいえます。


最近「ちいさな世界企業」の話がマスコミにもよく取り上げられますよね。日本にたくさんある、知られざるナンバーワン町工場の話です。あれなども同じ方向を指し示しているように思います。

文化に根ざすものだから強いのだし、逆に世界に通用する普遍性をもつのです。

学級の歴史

<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)<学級>の歴史学 (講談社選書メチエ)
柳 治男

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また、「学級の歴史学」(柳治男、講談社選書メチエ)もとても刺激的な本でした。


そこには日本の「学級」がいかに「作られて」きたものであるかが描かれていました。それを否定的に受け取ることもできますが、著者も認めているのは、「学級」が日本の教師たちの工夫によって作りあげられてきたということです。


校則や生徒の生活面にまで踏み込んだ指導、「学級文化の祭典」としての運動会…。それらは他の国の教育風景とは異なるかもしれませんが、日本に学校教育を普及させるうえで、日本の教師たちが産み出してきたまさに文化なのだと思います。


その頂点にあるのが、先だって亡くなった大村はまさんのような方ではないでしょうか。


何を教えるかということも文化なら、どう教えるかということもまた文化なのでしょう。

文化は、文化性の背景をもつ学校や教師によって伝えられる。その方法論もまた、文化性の背景の中で育まれ、伝えられていく。

そのことをもっと大事にするなら、教育現場ももっと活き活きとしていくのではないでしょうか。


教育で文化を変えるという発想もありえます。日本の近代化はたしかにそういうかたちで進められてきました。しかし、その過程でさえも日本人は日本化してしまったというのが、「学級の歴史学」の語るところでした。


そしてそれでいいのではないかと私は思うのです。


「西欧近代」にも日本人なりの受容があっていい。数学よりも実学が求められるなら、それでもいいんじゃないかと思うのです。

そういうことを、もう一度振り返って(過去をではなく、現在を)、考えてみてもいいんじゃないか、必要なのは教育改革ではなく、そういう行動なのではないかと思うのです。

ローレライとMONSTER

先頃映画化された「終戦のローレライ」「亡国のイージス」の原作(どちらも福井春敏作)を読みました。


福井晴敏の作品にはさまざまな小道具とそれにまつわる記憶が描かれます。

父に肩車されながら聞いた下駄の音であったり、祖父に手ほどきされた絵画とそれを象徴する絵筆であったり、また出征前夜に母が作ってくれたあんこ鍋であったり…。

終戦のローレライ(1) (講談社文庫)終戦のローレライ(1) (講談社文庫)
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それらのすべてが語ろうとしているのは、人と人とのつながりではないでしょうか。すべての人が、生きているかぎり何らかのかたちで人と関わり、何かを残していくのではないでしょうか。福井晴敏はそこにこそ生の意味を求めようとしているように思えます。


それらの記憶が主人公たちの脳裏に甦るとき、彼らをつき動かすのは「つながっている」という思いです。自分を世界につなぎとめているものの存在を感じとったとき、彼らは革命の言葉が描き出す世界の嘘に気づくのです。


文化とは、そんなささやかなモノやコトに媒介されて伝えられ、生き残っていくのだと思いました。


幸福な家庭だけではありません。私生児の主人公にも、顔も知らない父が置いていった異国のレコードがありました。何度も聞いた異国の調べがありました。

どんな家庭にも文化がありうるし、どんな人も文化の運び手となりうるのだと思います。


また、しばらく前に話題になった「MONSTER」というコミック(浦沢直樹作、小学館、全18巻)を最近になって読みました。


ショッキングなストーリー展開を前景に置きつつも、味わい深いエピソードを背景の随所にちりばめた印象深い作品なのですが、終末近くにこんなサイドストーリーがありました。

Monster (1) (ビッグコミックス)Monster (1) (ビッグコミックス)
浦沢 直樹

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息子と二人暮らしの父親は、幼い(小学生くらいでしょうか)息子が稼いできた金を巻き上げては毎日飲んだくれているひどい奴です。

物語全体のクライマックスとなるある晩、酒を求めてふらふら通りに出てきた父親は、息子がある登場人物から銃を突きつけられている場面に遭遇します。


「俺の息子に何しやがるんだ!」


父親は拾った銃をぶっぱなし、父親の登場を予期していなかった犯人は撃ち倒され、息子は難を逃れるのでした。


終幕後、父親は警察に引き立てられていくのですが、息子は「お父さんは悪くない!」と泣きながら追いかけていくのでした。


その後その息子の頭の中でどんな世界像、父親観が形成されていったのだろうと考えるとき、文化とは「人」という字とイコールであるのかもしれないと思います。

人を通じて何かが伝えられていく、そこに生起するさまざまな思いが雑多なベクトルとなって混じり合いながら、文化を形成していくのではないでしょうか。

文化を支えるもの

教育の神髄もそこなのだと思います。


いい先生、いい授業ならなおのこと、仮にそうでなくても、子どもは必ずそこから何かを受け取っていきます。それがポジティブな気持ちでもネガティブな気持ちでも、その子どものオリジナルな世界観の一部になっていきます。


そのオリジナルさこそがかけがえのないものなのではないかと思うのです。

「個性尊重」と言いますが、本当のオリジナルさとは「個」に宿るのではなく、人と人とのつながり、その偶然性の積み重ねにこそ宿るのではないでしょうか。

そこを見落としているかぎり、昨今の教育論はどこかで袋小路にはいってしまうのではないかと思います。


「教育に失敗があってはならない」という言い方にはなじめないのは、それが完全性を志向しているからではなく、それが文化を視野に入れていないからだと先に書きましたが、その理由はもうひとつあるのかもしれません。

つまり、そこでは教育というものが他者とのつながりを持たず、「個」で完結することを目指しているように思えるということです。


私は人と人との関係性の雑多さが文化を支えるのだと思うし、そのバイタリティに期待する強さを持つこと、そこにこそ個性ある文化が生まれてくるのではないかと思います。