2005年4月16日土曜日

不登校、選んだわけじゃないんだぜ!

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)
貴戸 理恵 常野 雄次郎

理論社 2005-01-20
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これは、小学校をずっと不登校で過ごし、中学から学校に行くようになり現在は大学院で社会学を研究している女性と、かつて「明るい不登校」を満喫しながら、現在はうつ病治療中の男性の共著による本です。


なかなかー筋縄ではいかない本なのですが、読み終えてひとつ私の中で明らかになったのは、

「現実をいかに引き受けながら生きるか」

それがテーマなんだろうなということでした。


この本を書店で手にとるきっかけとなったのは、ある教育関係のフォーラムでした。

それは「明るい不登校」をめぐる論争でした。「明るい不登校」とは、ネガティブなイメージの強い「不登校」をポジティブなものとして捉え直し、不登校に悩む子どもやその親を呪縛から解き放とう、という考え方です。

学校は行かなくてはならない場所ではないんだよ、学校がいやなら行かなくてもいいんだよというのが、そのメッセージなのでした。そうした考えの下に、不登校児のためのフリースクールがいま全国に誕生しつつあり、それと平行するように、子どもを学校にやらず家で教育しようという「ホームエデュケーション」も市民権を得つつあります。

しかし、私を含め幾人かの参加者はその論旨に違和感を拭えずにいました。それは単に「不登校の肯定」であることを大きく超えて、「学校の否定」というイデオロギーの色彩を帯びていたからです。つまり、学校こそが不登校を生み出しているというわけです。

それが「不登校」という個別の現象から語り起こされているところに違和感の原因がありました。その議論は、不登校ではない子どもたちのことを一切捨象した議論だと思えたのです。

どちらの陣営にも不登校児をもつ保護者が加わっていたのですが、私自身は不登校児と接点を持ったことがないので、何か考えをすすめるための手がかりはないだろうかと探していたところに、この本と出会ったのでした。

2

まず、「不登校という選択だってあっていいじゃないか」という言い方は、実際に不登校や引きこもりの子どもを持った親のギリギリの言葉として、理解できます(安易に理解できる、なんて言うと叱られるかも知れませんが)。

特に、「不登校は特定の性質をもった子どもだけの問題」と旧文部省が断定し、親の性格や育て方に問題があったと社会から糾弾された20年前や30年前には、親自身、そして子どもの人格を守るためには、「不登校」というアンチテーゼを立てる以外に選択の余地がなかったということは想像できます。


しかし、これをイデオロギー化して、「学校なんて行かなくてもいいんだ」というー般論として語れるかというと、それは違うのではないかと思うのです。

何故なら、文科省が「不登校は誰にでも起こりうる」と再宣言し、フリースクールが全国に誕生しつつある今でも、不登校という選択はやはり実社会において不利だからです。

この本によれば、「明るい不登校」を経た人の中でも、その後の人生を何の問題もなく生きている人はむしろ少数だと言います。そこから「不登校エリート」というもっと複雑な問題が出てきます。


(著者の一人、常野雄次郎の言葉から)

僕はかつて、その「エリート」の一人だった。でも、今にして思えば、僕自身にとっても、この物語は抑圧的なものだった。というのは、学校に行かないことへの劣等感を克服した時点で、この物語はハッピーエンドで終わってしまうからだ。この物語を受け入れるかぎり、それ以降どんなにつらいことがあったとしても、それを言葉にすることができなくなってしまう。

すなわち、「明るい不登校」を実践し、うまく実社会に復帰できた人はまだいい。そうでない人は「明るい不登校」が市民権を得れば得るほど逆にますますみじめになっていくということです。

それは、「明るい不登校」の旗印が、あくまでも「不登校だって実社会で問題ない」だったからではないのでしょうか。それは本来、「実社会でうまく生きていけなくたっていいんだ」というギリギリの決断、覚悟であるべきだったのではないでしょうか。そうでないかぎり、問題があった人たち(たとえばフリースクールにさえ行けなかった人、実社会にうまく適応できなかった人)は、「明るい不登校」からも落ちこぼれた者として、ー層社会の暗部に落ちていってしまう他なくなるのではないでしょうか。


「不登校という選択」は、やはりギリギリの覚悟を伴った選択だからこそ成立するのだと思います。つまりそれしか選択肢がないから成り立つのです。その淵に立たされた方々が、やむにやまれぬ気持ちで不登校を肯定するのはわかるし、そのことを否定する気持ちもその権利も私にはありませんが、イデオロギーとして「不登校」を持ち上げるのは、現実を直視するかぎり無責任という他ないのではないかと思います。


不登校が子どものせいでもなく親の育て方のせいでもないように、それは社会のせいでも学校のせいでもないのだと思います。どこかに(たとえば学校に)原因を求め、それさえなくなれば問題は解決すると考えるかぎり、幸福はないのだと思います。

「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」の著者たちは、そうした考え方に疑問をぶつけ、現実(の自分と現実の社会)を引き受けて生きる道を模索しようとしている点で、とても好感が持てました。

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考えあう技術 (ちくま新書)考えあう技術 (ちくま新書)
苅谷 剛彦 西 研

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ところで、学校の存在意義が揺らいでいること自体は確かだろうと思います。だからこそ、そこかしこで学校をめぐる議論が行われているのでしょう。


「考えあう技術ー教育と社会を哲学する」(刈谷剛彦・西研著、ちくま新書)の中で、著者たち(教育学者と哲学者)はそうした現実からスタ一トして、学校の可能性をどこに求めるかを論じています。

彼らによると、出発点は「職業選択の自由」にあります。職業選択の自由は自由主義社会を支える基本的な要素のひとつですが、普通に考えるほどこれは簡単なことではありません。

職業選択の自由を実現するためには、国民のー人一人がどんな職業にも適応できる最低限の基礎的能力を有している必要があります。そしてそのための教育は基本的に国家が提供せざるを得ません。農家の親は農業の技術を教えることはできるし、職人の親はその職の技術を教えることはできるでしょう。しかし、すべての分野における基礎的な教育を自分で施せる親はそうはいないはずだからです。

言い換えれば、子どもに特定の教育しか与えないということは、子どもの職業選択の自由を奪っているということになります。「子どもに選ばせる」と言えば聞こえはいいですが、子どもの志望など成長過程でどんどん変わっていくのが普通です。「あのときどうして数学の勉強をしなさいと言ってくれなかっなのよ」と子どもに言われて、「あのとき自分で選んだんじゃない」と言い返したところで、社会的にはそんな言い訳は通用しません。子どもの判断力は未熟であって親がそれを補ってやらなければならない」というのが社会の約束ごとなのですから。

そうした教育がきちんと提供できるなら、ホーム・エデュケ-ションやフリースクールを選ぶことも最終的には各家庭の自由かもしれません。選択肢があるということは悪いことではないかもしれません。

しかし、上に述べたような理由において学校の役割はまだまだ終わっていないし、ホーム・エデュケ-ションやフリースクールにも問題がない訳ではありません。さきほどの「不登校エリート」の問題もそうですし、またホーム・エデュケーションは確かに米国では市民権を得ているようですが(米国では1998年-1999年度で120万人~160万人。学齢人口 のおおよそ2%~3%に当たります)、一方で児童虐待やネグレクトの温床となっていて、社会問題化しているのもまた事実のようです。


それらを冷静に見つめながら、一般論だけではなく個々のケース に応じて考えていくことが必要だろうと思います。

4

「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」は、不登校や引きこもりをめぐる本であるとともに、ひとつの哲学書であると言って過言ではないかもしれません。

著者たちは、特殊な自分の経験を語っているようでいて、そこで語られている内容はおどろくほど普遍的なものであるように思えます。


人は誰も「自分」という牢獄を生きているのでしょう。牢獄のその壁はふだんは目に見えないかもしれませんが、逆境にあるときや思い悩んでいるときには、目に見える壁となって私たちの前に高くそびえたちます。

私がそのことを強く意識したのは大学の時でした。逆境にあったのではありません。ただとにかく先が見えず思い悩んでいた時期でした。

就職し、自分の足で歩きだし、無我夢中で生きているうち、その壁はいつしか見えなくなりましたが、しかしその壁は今も/いつもそこにあるのだと思います。たとえ壁は目には見えなくても、誰もが「自分」という限界を生きていることには変わりないのです。


つまり、「自分」という生をどう引き受けるか、それが問題なのではないでしょうか。


(著者の一人、貴戸理恵の言葉から)

「病気だ」と言えば、「かわいそう。しかたないね」と責任を免除される代わりに、それが「望ましくない状態」であることを認めることになる。

「選択」とすれば、「すばらしい状態」と言うことはできるけれど、ついてくる不利な状況まで「それを選んだ自分の責任」として個人的に抱え込まざるをえなくなる。

「登校拒否は病気じゃない。わたしたちは異常じゃない」

というフリースクールや親たちの論理は、後者をとるという選択だった。

「登校拒否は病気だ」

と常野くんは言う。さらには、「そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と。

これは、「病気」か「選択の結果」かという二者択一の強迫を、かき乱して、無効にしてしまう不思議なスタンスだ。

最初、不登校という経験を学校のせいにし、親のせいにし、社会のせいにした著者たちは、苦しみの末にそれを自分の一部として引き受けることを決意します。むしろ不登校という経験を抜いてしまったらそれは自分ではないと彼女たちは考えるようになります。捜し求めていた「本当の自分」は、青い鳥のように最初からここにいたというわけです。


そういう考え方は社会を改革しようという意志の否定だとお考えでしょうか。それは違うと思います。

現在の自分(の境遇)を否定するために社会の方を変えようという考え方に対して、現在の自分(の境遇)を肯定し、引き受けたうえで、その自分ができることをやっていこうとする姿勢が存在すると思います。その両者の間には雲泥の差があるでしょう。

少なくとも私は後者でありたいし、後者を応援したいと思います。