2004年10月16日土曜日

教育改革の幻想

教育改革の幻想 (ちくま新書)教育改革の幻想 (ちくま新書)
苅谷 剛彦

筑摩書房 2002-01
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教育については、入門書など紹介するまでもなく、子どもを持つ親なら誰もがすでに一家言持っているのではないでしょうか。

教育は誰もが自分なりに等身大で語ることのできるテーマです。しかし、その「等身大」ということに必要以上に価値が置かれるところにこそ、不毛な教育論争の原因があるのではないか。教育社会学者で東大教授の刈谷剛彦氏はこう述べています。


刈谷氏にはそのものずばりの「なぜ教育論争は不毛なのか」(中公新書ラクレ)という著書もありますが、こちらはあまり読みやすい本ではないので(タイトルだけお借りすることにして)ここでおすすめはしません。

なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)
苅谷 剛彦

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子どもは主役か?

なぜ「等身大」であることに価値を置く教育論は不毛になりやすいのか。

まず「子どもの視点」という言説があります。私はインターネット上のとある教育関連のBBSにしょっちゅう出没しているのですが、そこでよく見られる主張が「子どもの視点で考えよう」というものです。「大人の視点でばかり考えず、主役は子どもなのだから子どもの視点を大事にしよう」というわけです。

それはもっともな主張なのですが、ある一点において問題をはらんでいます。

すこし考えて見ましょう。たとえば、子どもは学校の主役なんでしょうか?

学校はたしかに「子どもが学ぶ場」です。しかしそれを、子どもが「主体的に学び取る」という風に言い換えることができるでしょうか。学校にはただ学びの材料が用意されていて、子どもたちはそれを主体的に選択して組み立てていくのでしょうか。

そういう側面もあります。しかしそれは限られた一部でしかありません。実際には学校において大きな役割をはたしているのは教師です。教師が、子ども達の反応に合わせて臨機応変にやり方を変えながら教え導いていく。そのことによって子供達に「学びとらせて」いくのが、学校教育のスキームであるはずです。

そうしてみれば、主役はむしろ教師の方であるという言い方も可能です。もちろん教師の視点がすべてになってしまってはまずいし、だからこそ先のような主張があるのですが、さしあたってここで問題にしたいのは、「子供が主役」という観点からは「教師が教え導く」という学校教育の構造が見えなくなってしまうということです。

子ども中心主義教育

教育論争を不毛にするもうひとつの要因は、「理想の教育」という言説です。この「理想の教育」と、先ほどの「子供が主役」という言説が出会うところに、「子ども中心主義教育」という思想が生まれてきます。

すなわち「子どもが生まれもった可能性を大事にすべきであるから、知識を一方的に授ける教育は望ましくない。個々の子どもの好奇心を原点に、子どもたち自身が自分で学んでいくような授業をすべきである」という主張です。

それはたいへんもっともな主張なのですが、そうであるだけになおさらそこには大きな罠が潜んでいるとも言えます。

著者によると、そうした「子ども中心主義教育」はアメリカでも広範な支持を集めているらしいのですが、成功例はきわめて限られているそうです。

そこで学ぶ子どもたちは、全員が白人で、裕福な専門職の親を持つ家庭の子どもたちであった。(中略)教師達も、通常の公立学校とは異なり、選りすぐりの教師たちが集められた。(「教育改革の幻想」より)

80年代末にはカリフォリニアで、制度としての子ども中心主義教育が導入された(つまり州全域ですべての学校で行われた)ようですが、全米規模の学力評価で下から5番目という惨憺たる結果に見 舞われ、方向転換を余儀なくされたようです。

その理由ははっきりしています。 子ども中心主義教育においては、教師が「教える」のではなく「ともに学ぶ」こと、「支援する」ことがよしとされます(いちばん大事なのは子どもたちの興味であり、選ぶのは子どもたちだというのがポリシーですから)。

しかし問題は、そうした姿勢を貫きながらなお、巧みに子どもたちを導き、才能を開花させてやることのできる教師はそんなにいないことです。これは一種の名人芸であり、極めて高度なスキルであって、一般化することがむずかしいのだと思われます。 そしてまた子どの方も、好奇心からスタートして必要な知識や思考を修得していける子どもは限られているのです。


実際、日本で行われた子ども中心主義のある公開授業(理科:テーマは溶解)で は、こんな光景が見られたそうです(同書より。原文は坂元忠芳氏「『新しい学力観』の読み方」旬報社)。

食塩を金槌でこまかく砕いて溶かす子、ハンカチの上に食塩を 一生懸命にこすりつけて粒をこまかくしている子、ビーカーに水を入れてガラス棒でかき回している子、水の中に食塩を入れて、ただ 何もしないで眺めている子、(中略)子どもたちの思いつくままの 活動が展開されていたといいます。活動すること自体が目的になりますから、これでいいことになります。こういう学習をいくらくりかえしても、溶けるとはどういうことなのかという基礎・基本を、すべての子どもたちに獲得させることはできません。

これこそ子ども中心主義教育の失敗例です。そしてそのしわ寄せは明らかに「できない子ども」に集まります。「できる子」は自分でどんどん学んでいきますが、「できない子ども」は本来適切に導いてやるべきなのに、子ども中心主義教育では教師は「ともに学」び、「支援」することしか許されていないために、できない子どもは必然的に現在の場所にとどまらざるを得ないからです。

「制度」への視点

「等身大の教育論」は、教師や制度に引き寄せられがちな教育論を子どもの方に引っ張る意味ではやはり大事です。しかし、そこに必要以上に価値が置かれ、逆に子どもの視点がすべてのようになってしまうと、先のようなことが起こるのだと思います。

また、理想がなくては進歩はありませんし、いろいろな理想を語るのはいいことだと思います。しかしそれを実現するためには、学校における「学び」はどんな構造によって成り立っているのか、というリアルな認識から議論をはじめるべきなのです。

すでに見たように、その構造を支えているもっとも重要なファクターは教師です。公立の小中学校だけでも65万人の教師が働いていると言います。それだけいれば優秀な教師もいれば、ダメな教師もいるでしょう。おそらく有能な教師はそのうちせいぜい1割程度でしょう。大半は、こう言っては失礼ですがふつうの教師だと思います。どこの現場でも能力の比率はそんなものですから。

優秀な教師は理想を具現化する力量を持っているかもしれません。しかし大多数を占める「ふつうの教師」にそれを無条件に期待するのは楽天的に過ぎるでしょう。彼(女)らをどのように「教育」するのか。子ども中心主義教育はまったく新しい教え方を必要とします。それをどうやって普遍的な方法論にし、普及・定着させるのか。そのためのロードマップが必要です。

また、ふつうの教師では期待どおりの成果が出ない場合、子どもたちへの影響がゼロならまだいいのですが、マイナスの影響が出ることはないのかどうか。「子ども中心主義教育」の場合は、日本でもアメリカでもあきらかにマイナスの影響がありました。こうした点に対する冷静な検証も必要となるでしょう。


著者は別の著作「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史」の終章で次のように語っています。


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苅谷 剛彦

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教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものにはだれも異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、だれも正面からは反対できない崇高なーー抽象的なーー価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか、その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について多くを語ることができる。ここに教育をめぐる論議のもうひとつの特徴がある。

教育には何ができないか

もう一冊教育をめぐる本を紹介しておきましょう。

教育論議においてそのような「子どもが主役」という抽象的な理想論に立脚した言説が幅を利かせるのは何故なのでしょうか。

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み
広田 照幸

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日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書 (1448))
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やはり教育社会学者で東大助教授の広田照幸氏は、「教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み」(春秋社)という本を書いています。

そこで取りあげられるのは、たとえば「現代の母親はダメになったのか」という問題です。広田氏には「日本人のしつけは衰退したか―『教育する家族』のゆくえ 」(講談社新書)という著書が先にあるのですが、これらの著作を通じて彼は「最近の母親はしつけをしなくなった」というような言説がいかに無根拠なものか、またそうした言説はどこから生まれてきたのかを豊富なデータと資料を用いて明らかにしてくれます。

そうした作業の中から浮かび上がってくるキーワードは、「望ましい子供像をあれもこれもとりこんだ」「完璧な子供=パーフェクト・チャイルド」です。そして、そうした子どもをつくりあげるものとしての「教育万能論」です。

それは、本当の教育さえ実現できれば「パーフェクト・チャイルド」ができあがるはずだし、もしそうならないとしたらそれは教育が不完全なせいである、という考え方です。

これこそまさに、先に述べた抽象的な理想をめぐる教育論議の背景にあるものではないでしょうか。

非行は親のしつけや学校の道徳教育が十分でないから起こる。だから子どもが事件を起こせば、親の教育や学校の責任が問われる。一方、「こころの教育」を訴える声も、教育基本法に「愛国心」を盛り込もうという動きも、それらを強化すれば問題はきれいさっぱり消えてなくなると言っているかのようです。今はそうした教育が十分ではないのだと。

こうした考え方が社会全般にゆきわたるとき、(現実には完璧な子どもを育てられない)(母)親を追いつめ、(もちろん完璧な子どもにはなれない)子どもを追いつめ、そして(実際には完璧な生徒に恵まれず、そのように生徒を導くこともできない)教師をも追いつめていく可能性があります。

問題は、子どもは決してパーフェクト・チャイルドにはなりえないし、教育は決して万能ではないということをいかに理解するかではないでしょうか。

「教育に何ができるのかを考えるのではなく、何ができないのかを考えること。教育に何を期待すべきかではなく、何を期待してはいけないのかを論じること」。

これは、実は刈谷氏の「大衆教育社会のゆくえ」の結びの文章です。

刈谷氏の同僚である広田氏は、この言葉を受けて「教育には何ができないか」を書いたようです。


両氏には他にも多数の著作がありますが、いずれも単なる印象論や観念論ではなく、データを積み上げ、検証を重ねていこうとする一貫した姿勢に好感が持てます。ぜひご一読をおすすめします。