2004年6月7日月曜日

家庭の教育力

「家庭の教育力が低下している」というお話がありますが、どうも私はひっかかるところがあるのです。

教育学者の広田照幸氏が「教育には何ができないか」(春秋社)の中で述べているのですが、「現代の母親はダメになった」とか「過去の子育てはよかった」とか「家庭の教育力の低下」といったイメージは、一見もっともらしいのですが、すべてどこか怪しい。


教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み
広田 照幸

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というのは、明治から昭和初期の農村をイメージしてもらえばわかると思いますが、子育てや教育、しつけに時間を割いていた家庭など日本全体の中でほんのひとにぎりの上流家庭にすぎないのです。 大半の家庭では子供は「ほったらかし」だった。 それどころか幼い弟や妹を背中に縛りつけて遊んでいる子供がザラだったようです。

そもそも子育てなど、大の大人が時間を割いてやるものじゃない、という意識が強かったようですね。それくらい大人は食い扶持を得ることで精一杯だったのでしょう。そうした環境では「放っといても子供は大きくなれば自然に分別がついてくるものだ」という考え方が主流だった。「小さいときに厳しくしつけなければ」というのは、ひと握りの上流家庭の育て方だったようです。だいたい専業主婦なんて上流家庭でなければあり得なかったわけですからね。

一億総中流化は、日本中のあらゆる層が上流家庭をめざすようになった、という現象でした。専業主婦が母親の鑑のようになり、お弁当が母性愛の象徴のようになり、子育てに時間をかけることがあたりまえのことになり...。しかし、生活水準はかなり均質化したのかもしれませんが、生活意識までほんとうに均質化し、上流階級化したのか、というところが問題です。

実際は、あいかわらず大半が「庶民」のまま暮らしているんじゃないでしょうか? それなのに、子どもの育て方だけは上流家庭のレベルを求められている、そこに問題があるんじゃないでしょうか?

すべての母親が愛情たっぷりのお弁当をつくり、すべての子供が昔のいいとこのおぼっちゃんのように礼儀正しく、きちんとしつけられているなんていうことがあり得るんでしょうか?あり得ない一種の理想像(?)を勝手に期待して、それができていない現状を見て「最近の母親は弁当をつくらない」とか「最近の子供は礼儀を知らない」と言ってるんじゃないかと思うのです。そしてそうした「一億総道徳化」現象をマスコミあたりが増幅してばらまいているんじゃないかとね。