2007年1月25日木曜日

学ばれない教訓

もう昨年の暮れの話になるが、ある日の「ニュース23」の特集テーマは「学ばれない教訓」だった。

いじめが元で娘が自殺してしまった父親のその後の活動を追いながら、いじめによる自殺が相次ぐ現在を告発しようというのがその趣旨だった。


問題意識に満ちた特集ではあった。

しかしぼくは、そのテーマ設定そのものに一種の進歩主義思想を感じとらずにはいられない。

そこで言外に語られているのは、つまり「ぼくたちは教訓から何かを学び取っていくべきである」ということと、「にもかかわらず同じ過ちが繰り返される現実は間違っている」ということだからだ。

一見正しいことを言っているようだが、実はそうでもない。


教訓が正しく学ばれていくなら、やがてすべての社会問題は解決していくことになってしまうが、そうなのだろうか?

むしろ、そういうノー天気な社会観の方が間違っているのではないか?と問いたいのだ。


社会とは、絶え間ない努力を重ねればいつか頂上にたどりつく山登りのようなものではない。

むしろそれは、支えつづけていなければたちまち転がり落ちてしまう大きな岩のようなものであって、ぼくたちはそれをひたすら持ち上げつづけなければならないシーシュポスのようなものだ。


かつて儒教では、理想の社会を過去(三皇五帝の時代)においたが、それは決してぼくらがたどりつくべき到達点としてではなかった。そうではなく、絶えず維持していかなければたちまち崩壊してしまう現実社会を支える規律として、それを捉えたのだった。

この二つは同じことのようだが実は微妙に違っている。

つまり、現実を否定して理想への道を語るのか、現実をそれはそれとして認めつつ、それをどう律していくかを考えるか、の違いだ。


そもそも「同じ過ちを繰り返す」というが、同じ過ちなどはこの世にひとつもない。ぼくたちの前に立ち現れてくるのは、常に前とは少しずつ様相の異なった現実だ。

飽くこともなく「告発されるべき権力」というステレオタイプの構図で社会を見るのでなく、そこに何があるのか、そのミクロの構図を見てほしいものだ。


現実は多様なパワーバランスによって成り立っている。

そこで言うパワー=権力とは、いわゆる体制権力のことだけではない。文科省や教育委員会が権力であり、また学校や校長、教師が権力であるのと同じレベルで、マスコミという権力があり、親という権力、世間という権力、そして子どもという権力もある。

子どもの中にも、いじめっ子の権力があり、クラスメートの権力があり、もしかするといじめられっ子の権力がある。「道徳的なふるまい」という権力があり、欲望という権力がある。

そうした多様な権力=パワーが、教育という場、教室という場に渦巻いているのであり、必要なことはその渦の中に入って行って、乱流の中から何をつかみ取ってくるかということであるはずだ。


しかし、「子どもたちを守ろう!」という大合唱がそうした思考をかき消してしまう。

その声の前では、校長も教師も権力をはぎ取られ、断頭台にひざまづかされたルイ16世のようにひとりの個人でしかなくなる。

権力とは決して「地位」のことではない。自分を超える何者かの力を借りようとする時、そこに権力が生まれる。地位や金だけではない。「正義」が権力の後ろ盾となることもあるのだ。根拠のない地位や金に比べれば、正義を後ろ盾にする方がはるかにマシではないかというかも知れないが、実際には正義にだってたいして根拠はない。そこにあるのは、せいぜい誰にとっての正義か、ということくらいだ。


問題は、正義が教育を行うのではないということだ。

正義の名の下に断罪を行うのはいいが、現実はその後にも続いていることを忘れてはいけない。フランス革命が安定した体制に移行するまでにどれだけの血を必要としたかを思い起こしてみるべきだ。恐怖政治があり、ナポレオンの台頭があり、王政の復活があり、また共和制が生まれ、再び帝政が登場し…。同じことはイラク戦争の後のイラクを見てもわかる。


目に見えるマクロの権力を入れ替えただけでは何の意味もない。いやむしろ教育を行う当事者不在のまま断罪が行われているかぎりにおいて、事態はむしろ悪化しているとさえ言える。

あるのは、ただ権力を追い落としたことへの満足だけだ。

ミクロの権力構造を捉え、そこで本当は何が起こっているのかを見ていく必要がある。


しかし、進歩主義思想にとりつかれた人々は、世界を両極端でしか見ようとしない。そこで問題になるのはいつも正義があるないか、進歩的であるかないか、そして体制の側か反体制の側かだ。


進歩主義者が往々にしてドリル学習を好まないのもそれと同根だろう。

ドリル学習には一見「進歩」がない。ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎない。だから彼らはそれに耐えられない。

だが、ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎないのだろうか。

ぼくたちは一見同じことを繰り返しながらも、変化しているのではないか。

そのミクロの変化を見ようとしなければ、世界という問題を解く糸口は見つからない。

もちろん、糸口が見つかったからと言って、世界という問題をすべて解き明かせる訳ではないのだが。


ぼくたちの旅はいつまでも続く。

しかし、ぼくらは「いったいいつになったら彼らは世界が進歩していくという幻想から覚めるのだろうか」とつぶやいてはいけない。そうつぶやいた瞬間に、ぼくたちは進歩主義者と同じ陥穽に落ちてしまうからだ。世界が進歩しないように、人もまたそのように進歩していく訳ではないのだ。


かくしてぼくたちは黒でも白でもない薄明の場所に立ちつづける。進歩主義者たちは世界が教訓から学ばないことを嘆きつづけ、ぼくたちはそのことに歯がゆい思いを抱きながらこうして議論をつづける。

だが、少なくともそれは「徒労」ではない。徒労とは何度も繰り返すものに対するため息の表現だが、世界は上で述べたように決して同じことを繰り返しはしないからだ。