2006年4月21日金曜日

消えてゆく個人と評価

「個人」というものがやがて消滅していく運命にあるとしたら、いわゆる「評価」という奴はどう変わっていくのだろう。


評価は企業でも学校でも行われているが、その対象は基本的に「個人」であると考えられる。

「個人」は、評価を与えられることによってますますその輪郭を鮮明にする。評価が客観性を志向していればいるほど、その傾向は強くなる。


これがあなたの正しい評価よ。あなたは今こうなんだから、これからは努力してこうならなきゃいけないのよ。


しかし、客観的な評価なんてものは、そもそもあやしい。

一体誰が、どんな点において、客観的な評価を下せるというのだろうか。


いくら評価基準なんてものをいじくり回してみてもダメだ。

すべては「暫定」であることを知るべきだ。ほとんどあらゆるものが「とりあえず」であり、「目安」であるにすぎない。

「個人」が最小単位ではなく、「本」が最小単位ではないように、評価もまた最小単位ではありえない。


評価を基準に据え、その上に座ってものを考えるのではなく、それをボールのようにして誰かとキャッチボールをしてみたらどうだろうか。


「とりあえず」相手に投げてみるのだ。相手は「ひとまず」受けとめるだろう。

次に相手はどうするだろうか。大抵の人は「投げられたので」投げ返すだろう。もしかすると、「何となく」ポケットに入れてしまう人もいるかもしれない。


そこには「働きかけ」がある。その時そこで、世界が生成している。

そこにはもう「個人」はいない。「関係」があり、「影響」があり、「交通」がある。


仏教もキリスト教も、はじまったときには聖典はなかったし、僧院もなかった。

語ろうとする口唇があり、傾ける耳があっただけだった。差しのべる手があり、見返す眼差しがあっただけだった。


いつからぼくたちは固定的なものを好むようになったのか。

教会を建て、聖典を編み、偶像をつくるようになってから、世界の、構造の固定化がはじまった。


評価表という1枚の紙切れも、拾い上げて丸めればボールになる。折れば紙ヒコーキになる。

引き出しに入れて忘れてしまうよりも、同じ紙切れならそんな風に道具として使ってみた方がよほど有意義だ。


そういう場所から、「評価」を考え直してみる必要がある。