教育という見地からものを語ろうとすると、どうしても進歩主義的な論調になる。
世界の捉え方に上下関係を持ち込み、上を(先を)目指そうという話になる。
たぶんそれが教育の本質なのだ。
教育という概念そのものが、進歩主義と切っても切り離せないものなのだろう。
「捨てる技術」でも知られるマーティングコンサルタントの辰巳渚さんが、ちょうど最新のコラムでこんなことを言っている(以下要約)。
はっきりいって聞き飽きた。
二極化、勝ち組負け組、下流社会、ロウアーミドル……この数年来、私たちの世の中は同じことを言い続けている。
「統計的には格差は拡大しているとはいえない」「いや、実態は拡大している」といった論争が、この数年来議論がつづけられている。
誤解を恐れずに言えば、経済格差があろうがなかろうがいいではないか。
人の幸福は、お金や経済指標では計れない。すでに70年代にはGNP(GDP)を疑う議論が生まれているのに、私たちはあいもかわらず「経済」という視点から抜け出せずにいる。
たしかに統計では語りきれない個人の生活というものがある。
茂木健一郎氏の概念で言えば、「クオリア」(質感)がそこにはある。
「教育文化論」の視点も、その辺をめぐるものであったかもしれない。
のっぺらぼうな理想や理論ではなく、現実生活の質感に満ちた考え方を私たちは見直す必要があるのではないかということだ。
しかし一方で、「経済格差があろうがなかろうが」と言ってしまうと、そこからは社会政策的な視点が抜け落ちてしまうのも事実だ。
社会政策は必要ないのかと言うと、それはやはり必要だろう。
どうも、個人の生活の質感からものを考えようとすると社会政策的視点が抜け落ちてしまうし、社会政策的視点の方からのみ考えようとすると生活の質感が抜け落ちてしまう。
その両方をバランスよく視野におさめることは、なかなか難しい。