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情報があふれ、情報が手軽に入手できる時代だからこそ私たちが考えなければならないのは、いかに「自分の頭で考えるか」ということだと思います。
そのひとつが「機械に使われない」ことなのですが、もうひとつは「情報に振り回されない」ということではないでしょうか?
新聞記事をどう読むか、テレビニュースをどう見るかという教育はとても重要になりつつあります。
昭和初期にもそうでしたが、マスコミというものは簡単に大衆を扇動する凶器になりえます。つい昨日も、「イラク兵を虐待する英兵」という写真を報道した英紙が捏造写真だったことを認め、編集長を解任しましたね。これなど最初の報道はセンセーショナルなだけに目立ちましたが、解任の方の報道は危うく見落とすところでした。訂正記事の方がいつでもどこでも扱いは小さいものです。
具体的には、「こう読め」という教え方ではなく、「鵜呑みにするな」「根拠を確かめろ」「推測か事実かを判断しろ」というようなことだと思うのですが。
「情報教育」というお題目でやるならば、ここを抜かしては成り立たないのではないかと思います。
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100年ほど前のサモアの酋長がヨーロッパを旅行して帰ったあと、自分の国の人たちに向けて書いた手記をまとめた『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(立風書房、1981年)という本があります。
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集
岡崎 照男 ツイアビ Tuiavii
立風書房 1981-01
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長くなりますがその中から抜粋を。新聞についてのくだりです。(ちなみに「パパラギ」とは白人のことだそうです)
...この紙の中に、パパラギの大きな知恵が置かれている。毎朝毎晩、パパラギは、この紙のあいだに頭をつっこみ、頭が新しいものでいっぱいになるように、腹いっぱいに食べさせる。
...パパラギは何でも、貪欲に取り込む。たとえどんなに悲しいことでも、健康な人間の理性ならすぐに忘れてしまいたいことでも。そう、まさによくないこと、人を悲しませるようなことが、どんないいことよりもずっとくわしく伝えられる。そう、よいことを伝えるより、悪いことを伝えるほうがずっと大切で、うれしいことででもあるかのように、こと細かに。
...おまえが兄弟に会ったとき、だれもがもう束になった紙の中へ頭をつっこんでいたら、もう何も新しいこと、特別なことを話そうにも話すことがない。そこでおまえたちはみんな黙ってしまうか、せいぜい紙がしゃべったことをもう一度くり返すだけだ。祭り、あるいは悲しみは、ともに祝い、ともに悲しむべきものであり、自分の目で見ず、他人の口から聞いただけでは、心を動かされることは少ない。
...新聞は、すべての人の頭をひとつにしたがっている。私の頭、私の考えを征服しようとしている。どの人にも新聞の頭、新聞の考えを押しつけようとしている。
...新聞もまた一種の機械である。毎日たくさんの考えを作り出す。ひとつひとつの頭が考え出すより、はるかにたくさんの考えを。しかし、たいていの考えは誇りも力もなく、弱い。おそらく私たちの頭は、栄養でいっぱいになるだろう。しかし、強くなりはしない。
この本を読んだ人の感想の両極端は、
というものでしょうか。
- この本の示すとおり、文明を捨て自然に帰ろう
- しょせん文明を知らない未開人のたわごとだ
私たちはそのどちらでもない道をゆくべきなのだろうと思います。この酋長の言葉と同じくらい、私が共感したのは、原書版に挿絵を寄せた画家の次のことばでした。
...小冊子「パパラギ」が私にとって愛すべきものとなったのは、「帰れる」という夢でした。実現不可能な夢。なぜなら、現在の技術と生活水準のことを考えると私たちはもう、自分では止めることのできない手順を始動させてしまった、例の「魔法使いの弟子」のようなものですから。そして魔法使いの弟子が溺れかけているように、私たちも成長信仰の中で溺れかけています。私たちはこのスープを、たとえそれには毒がはいっていても、飲みほすに違いないと思います。だから私はこの本を読みながら、たびたび胸に湧く滑稽なイメージのために、何度も大笑いさせられながら、この本をひとりの使者として真剣に受けとめずにはいられませんでした。...
私たちは否応なしにこの文明社会を生きていかなければならない。それが決してユートピアにつながる道ではないと知りながら。その中で、「情報」と上手につきあっていかなければならないのだと思います。
少なくとも、情報は、私たちの目を開かせてくれることがあるのと同じくらいに、私たちの目を曇らせてしまうことがある、という理解が必要だろうと思います。また、情報は、必ず送り手の主観によって編集されていることを知っておかなければならないと思います。
「事実」などないのだということを。